生まれたばかりの赤ちゃんにこころはあるのでしょうか?それとも、真っ白な中に少しずつこころが芽生えてくるのでしょうか。そもそもこころとは何でしょう?基本的にはこころには二つの次元があり、第一は自分や外の世界を認識する力、第二は人のこころ、相手の気持ちを理解する力です。
最近、赤ちゃんのこころを研究する乳幼児精神医学という新しい分野が注目されています。もともと、生れたばかりの赤ちゃんにも一人一人違いがあり、それは気質と呼ばれていました。さらに、赤ちゃんは生まれながらにして人を求めるようにからだもこころも仕組まれているということが明らかになってきています。例えば、生後間もない赤ちゃんでも物より人をよく見るし、機械の音より人の声によく反応します。生後数日もするとお母さんのおっぱいの臭いを嗅ぎ分けることもできるのです。ですから、漠然とはしているものの赤ちゃんには第一のこころの力が既に備わっていると考えられるのです。
赤ちゃんはしばらくの間は絶対的に親に依存しなければなりません。生まれたばかりの頃はこころの中も自分をとりまく家族や環境と一体であり、自分の内部と外部の識別もはっきりしていないでしょう。しかし、生後数ヶ月もすると自分の内部と外部が漠然と区別できるようになり、外部の中でも自分をいつもよく世話をしてくれる親のイメージがはっきりしてきます。そして、赤ちゃんのこころには、自分と親が「二人で一人」という感覚が育ちます。生後10ヶ月頃から始まる赤ちゃんの「人見知り」の意味は、自分にとって親が安全な存在であるということを認識できるようになった証拠なのです。
その後、1歳頃にもなると赤ちゃんは這い這いしたり歩いて自由に移動できるようになります。そうなると今度は自分の周囲の世界への興味が広がるため、赤ちゃんは親からどんどん離れていきます。しかし、まだ親なしでは危険を避けたり長い時間一人でいることはできませんので、直ぐにまた親を必要として戻ってきます。この時期の赤ちゃんにとって親はいわゆるベースキャンプの役割を果たします。つまり、冒険に行っては危機に遭遇して助けを求めに戻ってくる安全基地という訳です。この赤ちゃんの往復運動に情緒的にうまく応じてくれる親の存在が、第二のこころの育ちにきわめて重要なのです。
1歳頃の赤ちゃんには、まだ、自分が置かれている状況を正確に判断する能力は育っていません。記憶力はありますので、何度か経験したことはある程度自分で判断できます。しかし、初めて見る物や新たに経験することが自分にとって安全なのか危険なのか、楽しいことなのか不快なことなのかは解りません。そういう時、赤ちゃんはどうするのでしょう。
この時期、判断に困った赤ちゃんは親の顔色をうかがうのです。親がさも「大丈夫。心配ないからやってご覧」と言いたげな自信のこもった笑顔を見せた時には、赤ちゃんは安心して新たな経験にチャレンジします。そして、体験したことに満足感を抱きます。しかし、親の顔色が不安気だったり怒っているようだと尻込みするのです。そして、自分では体験せずにしてそれはいけない事だ、危ないことだと知ることができるのです。
これは専門用語で社会的参照と呼ばれ、こどもの情緒発達に重要な役割を果たすメカニズムだと考えられています。つまり、この時期、社会的参照を通して赤ちゃんは自分のこころと親のこころは共通するものだということを学ぶのです。表情を介して知る親の感情が、自分にも同じように沸き起こってくるということが解るのです。
ですから、このようなことができるようになると、今度は赤ちゃんの方から親にいたずらしてくるようになります。自分がこうすれば親は怒るだろう、喜ぶだろうなどと想像することができるようになるからです。また、2、3歳頃から始まるいわゆる「親への後追い」も、親の居場所をいつも注視し、自分の見たもの聴いたものに親にも関心をもつように求めるのもそういう意味があるからなのです。
このような親とこどもの相互的な情緒交流を通して、こどものこころはどんどん豊かになっていきます。そして、最終的に人のこころ、相手の気持ちを理解する第二のこころの基本が3歳頃までにしっかりと身につくのです。
この先もこどもはさまざまな人と出会い、さまざまなこころの交流を体験していきます。しかし、基本的に自分が人から愛される存在であり、人は自分が愛すべき存在であるという感覚や、おとなになって他者を信頼したり、他者に共感したり、思い遣りの気持ちを持てるようになるのは、3歳くらいまでの人間関係がとても大切なのです。